『自分が変わる 相手が変わる』
学校が始まり3週間が過ぎ、年度初めの新しい環境、新しい担任、新しい学習にも慣れてきて、それぞれの緊張感が解け、児童の本来の姿が見えてきました。新しい校長の存在にも慣れて、朝の玄関では元気に挨拶してくる児童がおり、その姿に私自身も励まされています。
学校がはじまって数日たったある日の下校後、突然学校に電話がかかってきました。
「先生、大変です。喧嘩がおきていて大騒ぎです。このままだと、周囲に迷惑をかけることになります。」
電話の向こうで二人の女子児童が代わるがわるうったえていました。スクールバスを降りた駅前で本校児童の兄弟喧嘩が起こったようです。それを心配しての連絡でした。
「何度も、『喧嘩やめて、迷惑だよ、仲良くしてよ』って言ってるんですけど、喧嘩をやめないんです。」
彼女たちの焦りと、何とかしたい、困った、という気持ちが伝わってきました。「互いに仲良くしましょう」「公共の場所でのマナー」など、普段からの教えが、この女子児童にしっかり身についているのだなと、まずは感心しました。
そこで、喧嘩中の兄の方に電話に出てもらうよう促しました。喧嘩はいったん休戦状態。彼に状況を尋ねると、彼の言い分はこうでした。
「弟が自分のいうことを聞かない。弟が持って帰るべきものを自分に持たせている。ルールでは、持ち物はちゃんとカバンに入れなければいけないのに、入らないからと言ってカバンから出しているので注意した。ところが自分に持たせようとしている。」
きっと涙が出ているではないかと思うような声で訴えていました。弟のカバンには自分にとって大切な物が入っていて、本を入れるとそれがつぶれてしまうので、カバンに入れたくなかった。後で知った弟の言い分です。
私は、兄に対して、君の言っていること、やろうとしていることは正しい、でもそれを言いつづけやらせようとしてその通りになるかな?と尋ねました。彼には、それが難しい状況だということはわかっているようでした。
「どうしたら弟が泣き止んでそこから一緒に帰ることができるかな?」と私が尋ねると、しばらくの沈黙の後、
「自分が持って帰る。」きっと悔しさも残る中での絞り出した答えだったでしょう。
「えらい! 本が重くなったら、交代で持ったり、ゆっくり歩いたりしながら気をつけて帰ってね。」私はそう言って電話を切りました。弟を変えようとした兄は、自らを変えたのです。
その後、何の連絡もありませんでしたので無事に帰宅したのではないかと信じています。
ルールを守らないことを決して推奨するつもりはありません。ただ、物事がうまく進まないとき、思い通りにならないとき、どのようにするかの教訓を、駅前での児童の出来事によって改めて教えられたような気がします。
以前、一緒に働いたことがある二人の元上司がおります。一人は「人は変わらない、自分が変わるしかない」、もう一人は「人は絶対に変わる」とそれぞれ両極端なことを言っていました。前者の言葉はよく言われていることです。後者の上司は常に人の中に入り、しつこいほど人と関わろうとし、相手を理解し行動していく、そんな上司でした。そのうちに、結局その相手も変わっていくのです。今でも私にとって両元上司は、尊敬する目指したい姿です。
自分を変える、見方を変えることは、実はとても難しいことではあります。しかし、それによって相手も自分も幸せになれるのなら何と素晴らしいでしょう。
聖書に出てくる使徒パウロの力強い言葉です。
「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」
コリントの信徒への手紙一9章 19、22、23節
ご家庭の上に神様からの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。
校長 小原義信