「感染症の収束と、人々の希望のための祈り」
まず、横浜三育小学校の児童・保護者・関係者のために、新型コロナ感染症の爆発的な感染拡大の収束のために、使命感を持って対応に当たっておられる医療従事者のために、お祈りいたしましょう。
今は、このコロナ禍において国中、世界中が苦しみや悲しみ、不安の中にいます。お知り合いや身近に感染された方もいらっしゃるかもしれません。医療現場やコロナ対応の関係機関におられる方は、常に緊張感の中で働いておられることでしょう。当事者から離れている私たちは想像することしかできません。
あるいは、「我が家は大丈夫だろうか」と憂えることもあるかもしれません。答えの見出せない、長いトンネルにいるような感じとも言えます。
昨年の緊急事態宣言中、ラジオのニュースで聴いた話です。
緊急事態のためにお店を閉じなければならない居酒屋が、簡易子ども食堂を店頭に設け、お昼にお弁当を無料で子どもたちに配布することにしました。あるとき、何度か弁当をもらっていた低学年の小さな男の子が、店に来てビニール袋を店主に差し出しました。袋の中を見ると、余った野菜の切れ端、パックに残った肉などが、無造作に入っていました。家から持ってきたんだけど、お母さんに言わないで、と男の子。自分に何ができるか、精一杯考えて行動に出たのでしょう。あるいは考えるより先に行動したのかもしれません。
コロナ禍の中に、優しさや思いやり、助け合いがある様子があちらこちらから伝えられてきます。必死に生きようとする姿から誰かの命を尊ぶ姿を感じさせられます。少し前までは、だれもが変わらずふつうに暮らし、学校に通い、仕事をし、夢を持ち、社会生活を営んでいました。急に環境が変わり厳しい状況を強いられています。「がんばりましょう」とあちらこちらで語られていますが、もうすでに全ての人々は十分にがんばっています。がんばりすぎていると言ってもいいでしょう。
「がんばりましょう」は、人に対して言うことよりも自分自身へのメッセージでもあります。わたしたちに何ができるか。それは、本当に必要なもの価値あるものを探し求め、毎日の生活で、学校で、家庭で、それぞれの立場で、思いやりの心と希望を持って精一杯生きるということに尽きるのではないでしょうか。ビニール袋を差し出した男の子のように。
まだしばらく、児童にもご家庭にもご負担をおかけしますが、どうか無理をせず、少しでも楽しみを見つけながら、この時を過ごしていただきたいと思います。
「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(ペトロの手紙一1章3~4節)
ご家庭の上に神様からの祝福が豊かにありますようお祈り致します。