「校長室」カテゴリーアーカイブ

校長先生からのメッセージ(10月)

2021/10/29

校長室

『大人の後ろ姿』

コロナの感染が落ち着いている様子が毎日報道されています。しかし、一気にすべてが解除されたり元の活動に戻したりというわけにはいきませんし、これまでの感染対策(手洗い、消毒、マスク、換気、密を避ける)は続けられていきます。

学校では、昨年から色々な行事やイベントを中止または変更してきましたが、現在の感染状況が落ち着いている時期に、校外学習や体験学習、見学など、感染対策を講じながら慎重に取り組んでいます。コロナの感染はまだ収束(終息)宣言されたわけではありません。しかし、できる範囲で、子どもたちにとって今しかできない経験を工夫しながら進めたいと考えています。

子どもたちは、行事を通して成長したり、準備する教師や親の姿を見て(大人の背中を見て)学んだり育っていくことも学校教育において大切な一面です。学校での保護者の活動も限られています (学校として活動の縮小をお願いしています) が、時々、少人数であってもご奉仕してくださる保護者の姿に子どもたちは感謝と尊敬の念を抱いているのも確かです。

ある本に登場する母親が、神学の教師でありカウンセラーである牧師に「どのように子どもを訓練し、しつけたらいいでしょうか?」と尋ねました。

すると牧師は次のように答えました。「『あなた』という模範が子どもを教えるでしょう。つまり、あなたの友人との会話、従事している仕事の様子、あなたが示す好き嫌いが彼を育てるのです。・・・・そのような傾向が子どもを形づくり生涯のあり方へとつながるのです。」参考:ジョン・ドレッシャー著『子どもに信仰を伝える』

別の例です。

「○○しないと△△してあげない」というしつけばかりだと、子どももそのようになっていくかもしれません。親は子どもに勉強させたい、良い子でいてほしいと思って言っているつもりが、子どもは「△△してあげない」といった罰や脅しの方を身につけてしまうのです。時々、「○〇しないと、遊んであげない。〇〇してくれないから、遊ばない。」という会話が子どもから聞こえてきます。

また、忘れ物をして本人が困ったらきっと忘れ物が直るだろうと放っておかれた子どもは、忘れ物を直すことより「自業自得型」の考え方で人を見、更には他人のせいにする考え方に至る可能性もあるのです。「親(大人)の言うことは聞かなくても、することは真似る」ということのようです。参考:「サインズ・オブ・ザ・タイムス」2016年11月号より

子ども時代に持った美しい記憶が将来の大きな力となることでしょう。先日1,2年生が芋ほり体験をしました。その姿を見ていて、私自身が子供時代に経験した赤紫の物体を地中から見つけ出した感動や、土を掻きわけ芋を掘り出すのに夢中になった思い出がよみがえりました。

あの時感動した、励まされた、勇気づけられた、憧れた、真似したいと思った・・・・、子どもの記憶が、輝かしい新しい夢へあるいは次のステージへと繋げられるために、私たち大人はよき助言者として模範者として寄り添う存在でありたいものです。

「母親がわが子を忘れ、愛さなくなることがあるだろうか。たとえそんなことがあっても、わたしはあなたを忘れない。」(リビングバイブル イザヤ書49章15節)

ご家庭の上に神様からの祝福が豊かにありますようお祈り致します。      校長 小原義信

校長先生からのメッセージ(9月)

2021/09/30

校長室

『心のマスクを外し、スキンシップの代わりにやさしい言葉をかけあう』

コロナ禍の恐ろしさは、実際に感染してしまうことは勿論、感染者数が増えてコロナ治療の医療体制もコロナ以外の医療もひっ迫してしまったことです。また、企業や家庭の経済的な困窮、何より子どもの心身の健康や学びが脅かされたこと、等々、あらゆる方面に影響を及ぼしてきました。

そして恐ろしさの別の視点は、あまり普段は表に出てきにくい差別感情や責任転嫁と責任回避、分断などが、むき出しとなる場面が増えてしまったのもこのコロナ禍で見られたことです。新型コロナについてはいろいろ実証されていることがありますが、まだわかっていないこともあります。不安だからこそ、また「何が正しいか」という答えが見いだせないからこそ、差別や分断も起こりうることです。

恐怖と正義感は、時には他者への圧力行為になりかねないことを見せられました。(自分自身の中にもありはしないかと自問自答しています。)

感染者数が今後更に下がれば、少しずつ様々な制限が緩和するともいわれていますが、同時に「〇〇証明の提示・提出」といったことになれば、新たな差別や分断が起こりかねません。

学校の方向性や判断も、「何が正しいか」に翻弄され迷ってきたのも事実です。それによって児童や保護者の皆様にもご負担をおかけしておりますことに心が痛みます。

今年の夏、オリンピック・パラリンピックの開催についての賛否や意見が分かれましたが、個人的には私もテレビでの観戦を感動しながら楽しみました。日本国内の賛否をよそに、多くの外国人選手や関係者、外国人記者は、日本のおもてなしの姿、親切、ホスピタリティーに関心と感謝を寄せ、喜んでいる声や記事を見聞きしました。何事も平和的に丁寧な対応ができる日本の心を私も誇らしく思います。それらがもっと身近に互いににじみ出ることができればと思います(コロナ禍であっても)。

三育小学校は、児童がイエス様の姿を学び、イエス様のようになりたい、なってほしいと願っています。また、他者を思いやる豊かな心を育て、人のために何が正しいことであり何が間違いであるかを自ら判断し行動するための力を育みたいと願っています。

これは、聖書の教えに基づくものです。

「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」ルカによる福音書10章27節 (校訓も同じ意味です)

しかし、どんな姿でもどんな状況でも自分をあるいは他人を価値ある存在と認めること、無条件で自分も相手も受け入れること、すなわち愛することは容易なことではありません。

ある本の著者は次のように言っています。

「無条件の愛を行動で示す、それはゆるすことです。」

「憎むこと、恨むこと、恐れることは過去のことであり、私たちは今を生きている。ゆるすことがなければ未だに過去を生きていることに過ぎません。ゆるすことは過去の傷を消す消しゴムです。」

「ゆるせば思う存分愛することができます。犠牲者としてのふるまいをやめればゆるすことができます。」ジャラルド・ジャンボルスキー著「ゆるすということ」より

私たちは、人をあるいは物事を自分の測りではかります。その測りはゆるしと愛と喜びに満ちているか、あるいは憎しみと恨みと恐れに満ちているか、二つに一つです。「隣人を自分のように愛する」ことができるために、まず神様が私をゆるし愛し喜びを与えてくださることを憶えたいと思います。

9月に入ってからのコロナの新規感染者数は下がり、緊急事態宣言も解除されました。しかし、全てが楽観できるものではなく、決して気を緩めることはできません。次の波が来ることは政府や専門家も想定しています。程度の幅があるにしても、しばらくコロナ禍は続くでしょう。これからも感染予防はしっかり(マスク、手洗い・消毒、ディスタンス)保ちながら、一方ではお互いの心のマスクは外し、心の距離を縮め、スキンシップの代わりにやさしい言葉、感謝の言葉をかけあうことで、私たち自身が差別や分断にいたらないように心がけたいものです。

ご家庭の上に神様からの祝福が豊かにありますようお祈り致します。

校長 小原義信

 

書写と英語のハイブリット授業の様子

校長先生からのメッセージ(8月)

2021/09/02

TOPICS

「感染症の収束と、人々の希望のための祈り」

まず、横浜三育小学校の児童・保護者・関係者のために、新型コロナ感染症の爆発的な感染拡大の収束のために、使命感を持って対応に当たっておられる医療従事者のために、お祈りいたしましょう。

今は、このコロナ禍において国中、世界中が苦しみや悲しみ、不安の中にいます。お知り合いや身近に感染された方もいらっしゃるかもしれません。医療現場やコロナ対応の関係機関におられる方は、常に緊張感の中で働いておられることでしょう。当事者から離れている私たちは想像することしかできません。

あるいは、「我が家は大丈夫だろうか」と憂えることもあるかもしれません。答えの見出せない、長いトンネルにいるような感じとも言えます。

昨年の緊急事態宣言中、ラジオのニュースで聴いた話です。

緊急事態のためにお店を閉じなければならない居酒屋が、簡易子ども食堂を店頭に設け、お昼にお弁当を無料で子どもたちに配布することにしました。あるとき、何度か弁当をもらっていた低学年の小さな男の子が、店に来てビニール袋を店主に差し出しました。袋の中を見ると、余った野菜の切れ端、パックに残った肉などが、無造作に入っていました。家から持ってきたんだけど、お母さんに言わないで、と男の子。自分に何ができるか、精一杯考えて行動に出たのでしょう。あるいは考えるより先に行動したのかもしれません。

コロナ禍の中に、優しさや思いやり、助け合いがある様子があちらこちらから伝えられてきます。必死に生きようとする姿から誰かの命を尊ぶ姿を感じさせられます。少し前までは、だれもが変わらずふつうに暮らし、学校に通い、仕事をし、夢を持ち、社会生活を営んでいました。急に環境が変わり厳しい状況を強いられています。「がんばりましょう」とあちらこちらで語られていますが、もうすでに全ての人々は十分にがんばっています。がんばりすぎていると言ってもいいでしょう。

「がんばりましょう」は、人に対して言うことよりも自分自身へのメッセージでもあります。わたしたちに何ができるか。それは、本当に必要なもの価値あるものを探し求め、毎日の生活で、学校で、家庭で、それぞれの立場で、思いやりの心と希望を持って精一杯生きるということに尽きるのではないでしょうか。ビニール袋を差し出した男の子のように。

まだしばらく、児童にもご家庭にもご負担をおかけしますが、どうか無理をせず、少しでも楽しみを見つけながら、この時を過ごしていただきたいと思います。

「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(ペトロの手紙一1章3~4節)

ご家庭の上に神様からの祝福が豊かにありますようお祈り致します。

校長先生からのメッセージ(6月)

2021/05/28

校長室

「喜び・感謝・祈りの運動会」

今年、2年ぶりの運動会を開催しました。1年生は勿論、2年生にとっても初めての運動会となりました。昨年は、新型コロナがどんなものなのかわからない中で、休校が長引きましたし、様々な行事が中止に至りました。児童にとっても保護者・ご家族にとっても残念な1年を過ごしてきました。この日をどれほど楽しみにしてきたか、運動会に参加する児童の活躍と笑顔、保護者の皆様の応援と笑顔がそれを物語っていました。

コロナの心配もある中での開催でしたが、参加してくださった方々には、様々な感染予防対策にご協力くださり感謝いたします。

私の運動会の楽しみの一つは、保護者のお顔を見ることです。お会いして直接ご挨拶できる楽しみもそうですが、わが子の、あるいはわが子のお友達の一生懸命走ったり演じたりする姿を、笑顔で時には熱く応援する姿に(今回は感染予防のため拍手のみでしたが)私は感動します。ある方は目に涙を浮かべて応援する姿もありました。親のそのような眼差しが一層子どもの頑張りを引き出していきます。子どもの活躍は親の力と言ってもいいでしょう。親の前だから一番いいところを見せたい、それが子どもの本能です。

「よくやったね。」「頑張ったね。」「あなたの姿が嬉しかったよ。」・・・きっと帰りの車の中で、あるいは食事時にこんな会話があったのではと想像いたします。

家族の一人が、あるいはお友だちが活躍し頑張り、その姿をみんなで喜び称える。家族の応援が、あるいはお友だちの応援が一人の子どもにとって大きな力となる。正に運動会のテーマにもなっていた「心を一つに…」「互いに励まし…」が実践されたときとなったのではないでしょうか。

この運動会のために、たくさんの祈りがささげられました。

運動会のずっと前から「ぼくは、運動会のために毎日お祈りしているんだ。」と、朝玄関であいさつする度に話してくれる児童がいました。

お隣のシャロームの入所者の方が、「運動会の練習をしている音や声を聴きながら、こっちも元気をもらいます。当日はお天気が良くなるといいですね。」と、運動会を楽しみにしてくださり、祈って下さった方もおられたと聞いております。

亀甲山教会では、「運動会のためにお祈りしていますよ。」「当日もお祈りしていますよ。」と、何人もの方々が声をかけてくださいました。前日の土曜日までの一週間、教会では有志による祈祷週があり、そこで毎日祈ってくださいました。

運動会当日、開会式のあいさつで「運動会のためにお祈りしていた人」と尋ねると、多くの児童が手をあげていました。

運動会の最中、時々雨が降ってきました。雨足が強くなってきた時点で休憩時間を取り一時中断しました。その間ある教室では自主的に祈る児童の姿がありました。その後の鼓笛や全校リレー、閉会式まで雨が止んでいました。ちなみに、片付けが終わり、教職員で道具をすべて建物に入れた後から土砂降りの雨となりました。

神様は、私たちの小さな祈りでも、力強い祈りでも、一人の祈りでも、大勢の祈りでも、最も必要なことを一番良い形で応えて下さるということを体験しました。優しい神様のお恵みに感謝いたします。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」テサロニケの信徒への手紙一5章 16~18節

ご家庭の上に神様からの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。

校長 小原 義信

校長先生からのメッセージ(5月)

2021/05/06

校長室

『自分が変わる 相手が変わる』

学校が始まり3週間が過ぎ、年度初めの新しい環境、新しい担任、新しい学習にも慣れてきて、それぞれの緊張感が解け、児童の本来の姿が見えてきました。新しい校長の存在にも慣れて、朝の玄関では元気に挨拶してくる児童がおり、その姿に私自身も励まされています。

学校がはじまって数日たったある日の下校後、突然学校に電話がかかってきました。

「先生、大変です。喧嘩がおきていて大騒ぎです。このままだと、周囲に迷惑をかけることになります。」

電話の向こうで二人の女子児童が代わるがわるうったえていました。スクールバスを降りた駅前で本校児童の兄弟喧嘩が起こったようです。それを心配しての連絡でした。

「何度も、『喧嘩やめて、迷惑だよ、仲良くしてよ』って言ってるんですけど、喧嘩をやめないんです。」

彼女たちの焦りと、何とかしたい、困った、という気持ちが伝わってきました。「互いに仲良くしましょう」「公共の場所でのマナー」など、普段からの教えが、この女子児童にしっかり身についているのだなと、まずは感心しました。

そこで、喧嘩中の兄の方に電話に出てもらうよう促しました。喧嘩はいったん休戦状態。彼に状況を尋ねると、彼の言い分はこうでした。

「弟が自分のいうことを聞かない。弟が持って帰るべきものを自分に持たせている。ルールでは、持ち物はちゃんとカバンに入れなければいけないのに、入らないからと言ってカバンから出しているので注意した。ところが自分に持たせようとしている。」

きっと涙が出ているではないかと思うような声で訴えていました。弟のカバンには自分にとって大切な物が入っていて、本を入れるとそれがつぶれてしまうので、カバンに入れたくなかった。後で知った弟の言い分です。

 私は、兄に対して、君の言っていること、やろうとしていることは正しい、でもそれを言いつづけやらせようとしてその通りになるかな?と尋ねました。彼には、それが難しい状況だということはわかっているようでした。

「どうしたら弟が泣き止んでそこから一緒に帰ることができるかな?」と私が尋ねると、しばらくの沈黙の後、

「自分が持って帰る。」きっと悔しさも残る中での絞り出した答えだったでしょう。

「えらい! 本が重くなったら、交代で持ったり、ゆっくり歩いたりしながら気をつけて帰ってね。」私はそう言って電話を切りました。弟を変えようとした兄は、自らを変えたのです。

 その後、何の連絡もありませんでしたので無事に帰宅したのではないかと信じています。

ルールを守らないことを決して推奨するつもりはありません。ただ、物事がうまく進まないとき、思い通りにならないとき、どのようにするかの教訓を、駅前での児童の出来事によって改めて教えられたような気がします。

以前、一緒に働いたことがある二人の元上司がおります。一人は「人は変わらない、自分が変わるしかない」、もう一人は「人は絶対に変わる」とそれぞれ両極端なことを言っていました。前者の言葉はよく言われていることです。後者の上司は常に人の中に入り、しつこいほど人と関わろうとし、相手を理解し行動していく、そんな上司でした。そのうちに、結局その相手も変わっていくのです。今でも私にとって両元上司は、尊敬する目指したい姿です。

自分を変える、見方を変えることは、実はとても難しいことではあります。しかし、それによって相手も自分も幸せになれるのなら何と素晴らしいでしょう。

聖書に出てくる使徒パウロの力強い言葉です。

「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」

コリントの信徒への手紙一9章 19、22、23節

ご家庭の上に神様からの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。

校長 小原義信

   

   

校長先生からのメッセージ(4月)

2021/04/19

校長室

「真の幸せを求めて」

新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。保護者をはじめご家族の皆様方にも心よりお祝いし歓迎いたします。また、一つ上の学年に進級した在校生の皆さんも、新年度の学校に歓迎します。それぞれ新たな気持ちを持って新学期を迎えたことでしょう。今年度も児童一人ひとりが可能性に向かって力強くチャレンジし、大きく成長してほしいものです。また、先輩として活躍してくれるようにと期待しています。
さて、大人は子になぜ教育を授けるのでしょうか。学校で、子どもたちは何のために学んでいくのでしょうか。
一言でいえば幸せになるためではないでしょうか。ただ、人によって幸せの定義や種類がちがうのも確かです。「幸せ」をグーグルで検索すると、数億件ほど抽出されるそうです。いかに人は幸せを求めているかということです。
私たちは、この10年で一見幸せの状態とはほど遠い、いや幸せの真逆と言える経験をしてきました。東日本大震災を筆頭に様々な災害がありました。そして、今も収束が見通せない新型コロナウィルスの拡大です。
幸福学研究の第一人者で、慶応義塾大学大学院の前野隆司教授は、このコロナ禍でも長続きする幸せを見出すことができれば、それは、コロナ後も続くと述べています。「幸せのメカニズム 実践・幸福学入門/前野 隆司」参考
前野氏が推奨する4つ幸せ因子のうちの一つ「ありがとう!」因子があります。(つながりと感謝の因子)それは、人と一緒に楽しんだり愛情に満ちた関係を築いたり、人に喜ばれること、親切な行為をすることなどによって幸せを感じることができると述べています。人は社会的な生き物ですから、他人や社会とどういうつながりを持つかがその人の幸福感に大きな影響を与えるのは間違いありません。
(その他「やってみよう!」因子、「なんとかなる!」因子、「あなたらしく!」因子)
「しあわせ」は、「し」と「あわす」の複合でできていて、二つのものが交わったり関わり合ったりすることから生じる、喜びをあらわす言葉だと言われてます。「幸せな人生を送った」という時、完結したり成功したりということだけでなく、その途上で自分の人生に関わる人々の愛情や親しみに触れて感謝した時に、自然と幸せだったという思いにふけることでしょう。
この世には、いろいろな幸せがあります。私たちはどんな幸せを求めたいでしょうか。三育は一時の幸せでなく人生にわたって通ずる一生の幸せを求め学んでいきます。幸せは交わりや関わりによって得られます。そして、真の幸せはイエス・キリストとの関わりによって得るものだと信じています。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」
ヨハネによる福音書15章4節

新年度は、新しい体制で三育小学校が始まります。三育小学校がこの地で更に輝き続けるよう、保護者の皆様と一緒に学校をつくりあげていきたいと思います。皆様のご理解とご協力をどうぞ宜しくお願い致します。
コロナ禍が続く中にあっても、児童の幸せを願い、希望に満ちた一年となりますよう教職員一同、精一杯努めてまいります。
ご家庭の上に神様からの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。

校長 小原 義信

横浜三育小学校
学校通信

校長先生からのメッセージ(3月)

「死の陰の谷を行くときも」

振り返りますと、昨年の3月から学校が休校になり、卒業式も在校生は参加できませんでした。しかし、今年度は、昨年から続いた新型コロナウイルスの感染が収まらない中ですが、卒業生、卒業生保護者、在校生そして教職員が集まって、第62回の卒業式を行うことができました。卒業生たちは希望に胸を膨らませて学び舎を巣立っていきました。卒業式の、私からの「卒業生への言葉」の一部を掲載します。

さて卒業、そして新しい出発に、わたくしから皆さんに伝えたいことをお話します。
みなさんは三育小学校で何を学びましたか。そして、その学びは何のためだったのでしょうか。卒業祈祷週でみなさんは、いろいろなことを証してくれました。神様への感謝、決心、後輩に伝えたいことなどを話してくれましたが、全員に共通していたことは、『神様に信頼して、これからも歩んでいきたい。』ということでした。立派な決心だと思います。これこそ、三育小学校が一番大切にしていることであり、学んで欲しかったことなのです。この決心があれば、わたくしは、皆さんが幸せな人生を送ることができると自信を持って言うことができます。
皆さんはパナソニックという会社を知っているでしょう。この会社を一代で築き上げたのは松下幸之助さんという方です。今でも「経営の神様」と言われています。しかし、不景気による業績の悪化、資金繰りの危機、取引先との意見の衝突、そして戦争・・・その人生は常に順風満帆だったわけではありませんでした。
松下さんの著書「道をひらく」の中に「道」という一節があります。次のような文章です。
「自分には自分に与えられた道がある。天から与えられた尊い道がある。どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。自分だけしか歩めない。二度と歩めぬ、かけがえのないこの道。広い時もある。せまい時もある。のぼりもあればくだりもある。坦々とした時もあれば、かきわけ、かきわけ汗する時もある。
この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまるときもあろう。なぐさめを求めたくなる時もあろう。しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
あきらめろと言うのではない。いま立っているこの道を休まず歩むことである。自分だけしか歩めない大事な道ではないか。自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。他人の道に心を奪われ、思案にくれて立ちすくんでいても、道は少しもひらけない。道をひらくためにはまず歩まねばならぬ。心を定め懸命に歩まねばならぬ。それが、たとえ遠いみちのように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。深い喜びも生まれてくる。」
さて皆さんはこれからどのような道を歩んでいくのでしょうか。ひとりひとりに与えられた、他の人とは違う道があると松下さんは言っておられます。ひとりひとりが将来の夢を描き、しっかりとその道を歩んでいってほしいと思います。
聖書の中にイザヤという預言者が出てきます。紀元前6世紀に、イスラエルはバビロニアという強国に滅ぼされました。主だった人びとがバビロニアの首都バビロンに連れて行かれたのです。国は滅ぼされ、信仰の中心であったエルサレムの神殿も破壊されました。その希望を失くし、囚われの身で過ごさなければならなかったイスラエルの民の一人にイザヤがいました。そのイザヤに神様の言葉が臨みました。イザヤ書55章8節9節に次のような言葉があります。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道はあなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」

神様の命令は、「エルサレムに帰りなさい」ということでした。そのふるさとは荒れ果てて、戻っても食べることも飲むこともできないかもしれない。それでも、イザヤは神様の言葉に聞き従えば「良いものを食べることができ、その豊かさを楽しむことができる。」と言います。神様の思いは、私たちが思い描いているものとは異なる。神様の道は、私たちが歩もうとしている道とは異なると言っています。
みなさんはこれからさまざまな困難に遭い、挫折をし、そして失敗もすることでしょう。自分の思い通りに進めないときがあるかもしれません。しかし、神様の思いはわたしたちの思いを高く超えているのです。その歩みに神様のご計画があることを覚えていてください。ぜひこれから経験する様々なことを生かして、着実に夢への階段を登って下さい。そして、神様から与えられた才能を最大限に活かし、社会や人々に役立つ人間になってほしいと思います。

みなさんは卒業にあたって、詩編23編1節を選びました。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」
続く4節には「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」と約束されています。
これからのひとりひとりの歩む道は違いますが、いつも羊飼いであるイエス様がそばにいてくださいます。イエス様がともにいて下さることを信じて、希望をもって自分だけの道を歩んでほしいと思います。

<学校通信 2020年度 第14号>

校長先生からのメッセージ(2月)

今年度初旬に申請していたタブレット端末がようやく納入されました。文部科学省のGIGAスクール構想による整備事業でしたが、折しも新型コロナウイルス感染拡大のため全国の学校の多くがオンライン授業を行うことになり、申請が殺到したため納入時期が大幅に遅れることになりました。今年度、十分に利用してもらうことができず申し訳ないと思いますが、残りの時間できるだけ活用できればと思います。

7年前の学校通信にネット依存について、次のような引用文を掲載しました。

「厚生労働省研究班の調査でインターネット依存の疑いの強い中高生が推計で全国に52万人いるという結果が発表されました。この数は全国の中高生の実に8%ということです。研究班は、多くの若者がパソコンやスマートフォンなどで情報交換やゲームに没頭し、日常生活や健康に影響が出ていると指摘しています。調査の質問項目の中には、ネットを使う時間を短くしようとすると落ち込みやイライラを感じるか、熱中しすぎを隠すため、家族にうそをついたことがあるか、問題や絶望、不安から逃げるためにネットを使うといったものがありそんな傾向の強い生徒が多くいることになります。」         岡田尊司著 『脳内汚染からの脱出』 (文春新書、2007年)

この本は2007年出版の本ですが、それから14年経ち、情報社会はさらに発達し、それにともなうさまざまな問題が起こっています。インターネット依存の子どもの数は更に増えているでしょうし、低年齢化も進んでいると思います。

最近出版された「スマホ脳」という本の帯には次のような文が書かれています。

「1日4時間、若者の2割は7時間使うスマホだが、スティーブ・ジョブズを筆頭にIT業界のトップは我が子にデジタルデバイスを与えないと言う。なぜか?

睡眠障害、うつ、記憶力や集中力や学力低下、依存、最新研究が明らかにするのはスマホの便利さに溺れているうちにあなたの脳が確実に蝕まれていく現実だ」

アンディッシュ・ハンセン著 久山葉子訳 『スマホ脳』(新潮新書、2020年)

著者はデジタルデバイスを否定しているわけではなく、その使い方についての提言をしています。技術の発達によって以前では考えられないほど情報の発信や収集が容易になってきました。また、インターネットは便利で大きな可能性があり、世界中とつながることができますが、それを悪用する人もいます。自分自身や社会に及ぼす影響を十分に理解し、一人一人が意識して自分の身を守る心を育てていきたいと思います。ご家庭でもデジタルデバイスに触れる機会がありますので、その使い方にご留意いただければと思います。

さて、久しぶりの校外での学校行事、駅伝大会が行われました。整備されたトラックで思う存分走ることができました。応援してくださった保護者の皆様ありがとうございました。

駅伝大会のあと学校に戻り6年生を送別するお別れセレモニーでは、在校生から6年生へ感謝と、新たな中学校生活へのエールを送り、6年生が感謝と決心を述べました。毎年、この行事が終わるといよいよ卒業が目の前に迫ってきて、卒業を意識しはじめます。来週は卒業祈祷週がもたれ、6年生が小学校生活の中で経験したさまざまなことから証しします。この証しは後日、動画配信する予定です。

いよいよ3月になり、締めくくりの月となります。残り少ない日々を大切に過ごしていきたいと思います。

<学校通信 2020年度 第13号>

 

校長先生からのメッセージ(1月)

「スペシャリスト」

いつも学校の教育活動にご理解とご協力を賜り感謝申し上げます。

例年とは違う年が明け、いまだ世界中で困難な状況が続いています。学校も緊急事態宣言下、時間を短縮させていただきましたが、比較的落ち着いた学校生活を送ることができています。6年生の児童の中には、受験日が近づき、大事をとって家庭学習をしている児童も見受けられます。昨年の今頃、コロナウイルス感染のニュースが流れてから、早くも一年が過ぎようとしています。マスクをつける、人と話す時に距離や立ち位置を考える、食事中は会話をしない、声を出して歌わない、この一年で身に付いたコロナの生活習慣から一日も早く抜け出し、通常の生活に戻ることを願うものです。

さて、年末年始に読んだ本の中から一冊をご紹介します。題名は「教えるということ」。著者は現在、大分県にある立命館アジア太平洋大学(APU)の学長をしておられる出口治明さんです。副題として「日本を救う『尖った人』を増やすには」とあります。

本の中で、出口さんは、「日本の教育は、スペシャリストよりゼネラリスト(いろいろな分野の知識を広く浅く持っている人)を育てる教育です」。そして、「いままでのような教育では世界で通用しなくなる。アイデア勝負の時代に必要なのは、自分の好きなことを究めて、高い能力を発揮するスペシャリストです。工場モデルに最適化した『素直で、我慢強く、協調性のあるタイプ』ばかり育てるのでなく、スティーブ・ジョブスのような尖った人材の育成が急務です。」と述べています。

 聖書の中に次のような言葉があります。
「あなたがたは、それぞれ賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」
ペトロの手紙Ⅰ 4章10節

「賜物」はギリシャ語では「カリスマ」というそうです。英語ではGiftが用いられています。子どもたちは、それぞれに神様から「賜物」を、スペシャルな「能力」を与えられています。ひとり一人がそのことを心に留め、他人と比較することなく、与えられた賜物を活かすための学びを続けてほしいと思います。そして私たち大人も、そのような視点で子どもたちの成長を助勢していきたいものです。

<学校通信 2020年度 第12号>

 

校長先生からのメッセージ ~終業式~

「愛された存在」

今年も残すところわずかとなりました。感染拡大も収まる気配がみえない中ですが、今学期を無事に終えることが出来ました。これも保護者の皆さまの教育活動へのご理解とご協力をいただいたお陰と感謝しております。本当にありがとうございました。
2学期の初めに「新型コロナウイルスの感染者等が発生した場合の対応について」という文書を配付させていただきました。感染や濃厚接触者が確認された場合に学校にお知らせいただくお願いでしたが、幸い児童、同居者の方の感染は現在のところ確認はされておりません。これにつきましてもご家庭のご協力を感謝いたします。
さて、クリスマス会も動画配信となりましたが、児童たちの演技や演奏など、いかがだったでしょうか。カメラの前で演じるということで、慣れないことも多かったですが、それぞれの役割をしっかり果たすことができたと思います。1,2年生の「クリスマスの夜」、3,4年生の「ヨセフ物語」、5,6年生の「平和の君」それぞれ焦点の当て方は違いましたが、私たちひとり一人が愛された存在であること、そして愛されている私たちはどのように生きればいいか、ということを考える内容でした。
世の中は、新型コロナウイルス感染の終息がいつになるのか、誰にも分らない不安の中に置かれています。今回のコロナウイルス感染や豪雨災害、地震、台風などの自然災害は時を選ばず襲ってきます。そのような出来事の中で、私たち人間はいかに無力であるかを思い知らされます。また同時にこのような大変な状況に遭った時、生きる意味を考えるのではないかと思います。しかし、いつどのような状況の時にも、「私は愛されている」という確信を持って歩んでいければと思います。
詩人、小説家、政治家であり「レ・ミゼラブル」の著者ヴィクトル・ユーゴーの言葉に次のようなものがあります。
「人生最大の幸福は、愛されているという確信である。自分のために愛されている、否、もっと正確には、こんな自分なのに愛されているという確信である。」
コロナウイルスの感染が終息しない今年のクリスマスですが、皆さまにとって意味があり、神様の深い愛を感じられるものとなりますように心から願っております。

※トップ画面に掲載した写真は、子ども達の写真で作られたモザイクアートです

<2020年度 第10号>