『心のマスクを外し、スキンシップの代わりにやさしい言葉をかけあう』
コロナ禍の恐ろしさは、実際に感染してしまうことは勿論、感染者数が増えてコロナ治療の医療体制もコロナ以外の医療もひっ迫してしまったことです。また、企業や家庭の経済的な困窮、何より子どもの心身の健康や学びが脅かされたこと、等々、あらゆる方面に影響を及ぼしてきました。
そして恐ろしさの別の視点は、あまり普段は表に出てきにくい差別感情や責任転嫁と責任回避、分断などが、むき出しとなる場面が増えてしまったのもこのコロナ禍で見られたことです。新型コロナについてはいろいろ実証されていることがありますが、まだわかっていないこともあります。不安だからこそ、また「何が正しいか」という答えが見いだせないからこそ、差別や分断も起こりうることです。
恐怖と正義感は、時には他者への圧力行為になりかねないことを見せられました。(自分自身の中にもありはしないかと自問自答しています。)
感染者数が今後更に下がれば、少しずつ様々な制限が緩和するともいわれていますが、同時に「〇〇証明の提示・提出」といったことになれば、新たな差別や分断が起こりかねません。
学校の方向性や判断も、「何が正しいか」に翻弄され迷ってきたのも事実です。それによって児童や保護者の皆様にもご負担をおかけしておりますことに心が痛みます。
今年の夏、オリンピック・パラリンピックの開催についての賛否や意見が分かれましたが、個人的には私もテレビでの観戦を感動しながら楽しみました。日本国内の賛否をよそに、多くの外国人選手や関係者、外国人記者は、日本のおもてなしの姿、親切、ホスピタリティーに関心と感謝を寄せ、喜んでいる声や記事を見聞きしました。何事も平和的に丁寧な対応ができる日本の心を私も誇らしく思います。それらがもっと身近に互いににじみ出ることができればと思います(コロナ禍であっても)。
三育小学校は、児童がイエス様の姿を学び、イエス様のようになりたい、なってほしいと願っています。また、他者を思いやる豊かな心を育て、人のために何が正しいことであり何が間違いであるかを自ら判断し行動するための力を育みたいと願っています。
これは、聖書の教えに基づくものです。
「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」ルカによる福音書10章27節 (校訓も同じ意味です)
しかし、どんな姿でもどんな状況でも自分をあるいは他人を価値ある存在と認めること、無条件で自分も相手も受け入れること、すなわち愛することは容易なことではありません。
ある本の著者は次のように言っています。
「無条件の愛を行動で示す、それはゆるすことです。」
「憎むこと、恨むこと、恐れることは過去のことであり、私たちは今を生きている。ゆるすことがなければ未だに過去を生きていることに過ぎません。ゆるすことは過去の傷を消す消しゴムです。」
「ゆるせば思う存分愛することができます。犠牲者としてのふるまいをやめればゆるすことができます。」ジャラルド・ジャンボルスキー著「ゆるすということ」より
私たちは、人をあるいは物事を自分の測りではかります。その測りはゆるしと愛と喜びに満ちているか、あるいは憎しみと恨みと恐れに満ちているか、二つに一つです。「隣人を自分のように愛する」ことができるために、まず神様が私をゆるし愛し喜びを与えてくださることを憶えたいと思います。
9月に入ってからのコロナの新規感染者数は下がり、緊急事態宣言も解除されました。しかし、全てが楽観できるものではなく、決して気を緩めることはできません。次の波が来ることは政府や専門家も想定しています。程度の幅があるにしても、しばらくコロナ禍は続くでしょう。これからも感染予防はしっかり(マスク、手洗い・消毒、ディスタンス)保ちながら、一方ではお互いの心のマスクは外し、心の距離を縮め、スキンシップの代わりにやさしい言葉、感謝の言葉をかけあうことで、私たち自身が差別や分断にいたらないように心がけたいものです。
ご家庭の上に神様からの祝福が豊かにありますようお祈り致します。
校長 小原義信
書写と英語のハイブリット授業の様子